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Axiomatic Set Theory

                          公理的集合論

 公理的集合論

       

● 未完の草稿「公理的集合論」金井康雄 著 のプ ロ ロ -グより 

        - 数学基礎論と公理的集合論 -                
 19世紀よりの無限小解析学の算術化,厳密化に伴い,解析学の基礎概念の定式化と無限概念の扱いが問題 となってきた。 また,それらは論理の代数化や基本概念の公理体系化を誘引していった。? そのような流れの中で,数学的概念の記述道具として,あるいは無限計算の対象として,集合論という概念が 形成されていくことになる。この歴史的経緯から,集合論は,その始まりより,二つの役割を担っている。 一つは数学を記述する道具としての役割。もう一つは無限算の対象としての役割である。 これらのことと「数学の危機」と言われた事件を契機として,厳密な論理とその使用に基づいた集合論の体系化への 強い要求が生じた。こうして集合論の公理化が試みられることとなった。 このように,公理的集合論の意識されるべき問題として, 


A. 全数学を包括し展開し得る抽象的理論体系としての集合論 

B. 無限計算の理論展開ができる体系としての集合論 

があげられる。 
 その公理化の過程において,A の問題意識のもとに解析学の基礎の理論展開での要求から「選択公理」の体系への 取り込みが考慮された。また,B の影響として,自然数の拡張と考えられる順序や個数を表現する順序数を基盤として 全集合を構成することになった。? そこでは,集合の宇宙をより高く延ばしていくため「置換の公理(群)」や実数などの量的なものを表現するために 「べき集合の公理」が必要とされた。 
厳密な公理体系として, 

C. 無矛盾な体系としての集合論 
が要求される。また,従来の数学的探求と同様に,真偽を見 極める,明らかにするという要求より, すべての集合論における言明あるいは主張は真か偽かのいずれかであることが求められた。つまり, 

D. 完全な体系としての集合論 

が求められたのである。(素朴なプラトニズム) 
 以上四つの問題意識を持って,公理的集合論は発展してきた と思われる。例えば,C について,先ずより簡素な体系である自然数の公理体系「ペアノの公理体系」の無矛盾性が考察された。ゲ-デルの衝撃的結果「不完全性定理」にめげずに,ゲンツェンはある仮定の下で 「自然数体系の無矛盾性」を証明した。「集合論の無矛盾性」の証明に向けての取り組みはゲンツェンの結果を 基礎として進められている。それへの一歩として,竹内などが寄与してる厳密な立場に立った 「解析学の無矛盾性」証明を目指した研究がある。 
また,A や D についての考察目標として,強力な公理を集合論の体系に加え,A や D の問題を部分的にも解決して 行こうという提言がある。(「ゲ-デルのパラダイム」) 
 特に,実数の集合の性質を扱う記述集合論の問題を解決する ために「巨大基数の公理」や「決定性の公理」が 強力な公理としての役割を果たしていることが示されている。また,B と D についての解決を目指して,先程と同様に,いくつかの強力な条件を仮定して,無限算の公式を導くことが示され研究されている。 最近の結果として,2^ℵ_0 = ℵ_2 を導くものがある。(「ウ-ディン」の結果など) 
 数学というものが日に日に発展していくものと考えると,集合全体は閉じた世界を形成するのではなく, ビッグバン宇宙のように,新たなものを生成しつつ広がっていく世界であるべきと思われる。 実際には,集合全体のミニティァ版を考えるにしても,何か新たなものを生成する力がその世界になくてはならない。 このようなことを要請する公理として強制法の公理がある。 
D という目標が如何に遠い所にあるかを示す例として,カント-ルが提唱した「連続体仮説」の独立性の証明がある。 その否定が証明できないことはゲ-デルにより,肯定が証明できないことはコ-ヘンによる。 コ-ヘンは自ら創り
出した強制法という概念を用いてそのことを示したのであるが, ソロベイやマルティンはそれらを公理化(条件化)した。それが強制法の公理である。 
しかし,日々生成される中にあっても不変なもの,いろいろ なものが生成され流転し見方が変化する世界にあっても 変化しない性質あるいは条件を見極めることは集合の世界を理解する上で重要なこととなる。 そのことに対応する研究対象として,「絶対性」がある。 このことは,現在の集合全体の D 的性質の検証ともいえる。生成拡大によって, 拡大する前の集合世界における対象についての性質で拡大後も成立しているものとしてどのような性質があるか? を考察するのである。 
 以上が著者の目から見た現在までの公理的集合論の研究内容 および将来の研究方向の概説である。 

 The following questions are ones to express what is desired for axiomatic set theory.

A.  Is the set theory a system that can describe all the mathematics which is spreading ?

B.  Is the set theory a system that can develop the theory of infinite calculation ?

C. Is the set theory consistent ?

D. Is the set theory complete ?

   It seems that satisfactory positive answers will be returned to A.  However, based on the results obtained up to now,  for B, various positive and negative answers are likely to be received.

 

 The question B is directly related to the following question D. 

 As the conditions assumed in the search for set theory gradually become stronger,  it is expected this basic question were answered to the set theory.   

  I cannot answer this question in a positive way, but I think the assumptions are getting stronger in order to get closer to a system which can be given a more positive answer.

Obviously, D contradicts Gödel’s incompleteness theorem,

 

and C is a major theme in the proof theory.

    Roughly speaking,  A  may be regarded as Dedekind’s thoughtB  as Cantor’sC  as Hilbert’s and  D  as Gödel’s thought.   

Why do we search for large cardinals ?  One reason is that we want to decide or to know whether statements on mathematics are logically valid under those assumptions.

 For example, why do we want to know whether the continuum hypothesis is true ?

Thus, Cantor’s thought demands the completeness of set theory, and Gödel’s thought suggests to discover new axioms which decide the sentences which have been undecided until now.

 What Gödel said can be understood as follows.

This said that  we have to pursuit axioms to bring set theory closer  to completeness.   In general, mathematical activities have the aspect of getting as close as possible to the unachievable goals.

Mathematics Education

                                                                                           教育

未完の草稿「教育観の基礎 ― 悟りを目指した教育に向けて ―」
                                           金井康雄著 のまえがきより 
              - 教育の本質を目指して -         
 教育の問題が数年来継続して巷間議論されています。何が問題なのか。常により良い教育を目指した議論なのか。
  学力低下が問題なのか。この書で,いろいろな書物から資料を漁りながら教育の問題の根幹を示し,その解を示すことを試みてみたいと思います。当然個人の考えなので,それが解として実行的役割を担えるかどうかは世間の見識に委ねるしかありません。少なくとも一つの解と診て頂ければ幸いです。この書のサブタイトルと章立てでもお分かりのように,もう既に結論が見えていると言われるかも知れません。 
 教育の目的として『悟りへの支援』を掲げ,その前提となる世界観として『転生輪廻』を含むものを想定しています。宗教書ではないかと思われるかも知れませんが,長い教育思想の流れを追っていきますと,そう奇異な考えでもなく妥当な考えのように思われます。むしろ,第二次世界大戦後の日本における教育思想,教育観が奇異のように思われます。この書を読まれたのちの諸兄のご批判を頂きたいと思います。 (2011年5月15日記す)

「新訂 教育からの見直し - 政治・経済・法制・進化論 -」 村井 実 著 (東洋館出版社)

○ 子供は「善さ」を求めて生きるものであり,その子供たちを「善く」しようとする活動が教育であると主張されている。

○「善い」と判断するとき,次のような要求をみたすものとして判断していると書かれ てある。私には,少し疑問であるが。

     1) 相互性(共有性?)の要求

     2) 効用性(普遍的な快さ?)の要求

     3) 無矛盾性(一貫性?)の要求

     4) 美(上記3要求の適度なバランス?)の要求

「教師の哲学」 岬 龍一郎 著(PHP研究所)

著者があげる八名の先師の中に国民教育の父と謳われた森信三がいる。ここにこの師の言葉を紹介する。

 

 「教育とは流れる水に文字を書くようなはかない仕事なのです。しかし,それをあたか も巌壁にのみで刻みつけるほどの真剣さで取り組まなければなりません。教師がおのれ自身,あかあかと生命の火を燃やさずにいて,どうして生徒の心に点火で きますか。教育とはそれほど厳粛で崇高な仕事なのです。民族の文化と魂を受け継ぎ,伝えていく大事業なのです」